飢饉の被害を抑えるために道をつくった牧庵鞭牛

カテゴリー: いい話
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610:名無しって呼んでいいか?:2010/05/31(月) 00:41:15 ID:???

江戸時代の閉伊地方(岩手県東部)は貧しい土地であり3年に一度は飢饉が起こっていた
その上内陸とは貧弱な道でかろうじでつながっている程度

毎年のように犠牲者が出た上に一度洪水が起これば道が寸断され通行出来ず
洪水で凶作が起こればたちまち物流が途絶え餓死者が続出した陸の孤島である

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牧庵鞭牛はそんな閉伊地方で住職をしていた
村民のそばにいるべきだと考え奥まった場所にあった寺を
道に面した場所に移築し村民との交流を増やすなど民衆想いの人物であった

宝暦5年(1755年)、閉伊地方を大飢饉が襲った
宝暦の飢饉として記録に残る大飢饉である
例によって道が寸断され飢餓に喘ぐ民衆たち

甚大な被害の大きさを目の当たりにした鞭牛は内陸と道をつなぐ事を決意する
物流があれば飢饉も緩和されると考えたのである
鞭牛46歳の時であった

のみやげんのう、つるはしなど基本的な道具を使いたった一人道を作る鞭牛
そんな鞭牛を「和尚の遊びか。三日続くまい。」と村人は冷やかに見ていた

しかし鞭牛は風雨をものともせず大きな固い岩を一人で砕き日々黙々と作業を続けた
そんな鞭牛の姿に共感した村人達が次第に道路開削を手伝うようになっていた

鞭牛は道路開削に専念するために住職を辞した
険しい地形故に作業中に何人も死者が出た
一つの工事が終わる度に鞭牛が弔い供養碑を建てていた

それでも工事は続き閉伊地方と南部藩の府である盛岡を繋ぐ道が完成
104kmにも及ぶ長さであった(現在の国道106号線)
南部藩も道路開削の功績を認め鞭牛に終身扶持を与えている

その後も沿岸路、薬湯への道なども開削していたが
天明2年(1782年)に天明の飢饉が発生
江戸時代最大の飢饉であり全国を襲ったこの飢饉は閉伊地方にも及んでいた
鞭牛は飢饉に喘ぐ村民のために諸仏に祈願しながら座禅往生したという
享年73

鞭牛が携わった道は総計400kmにも及び現在でも一部の道が使われ人々が往来している

みんなの反応

1:わん◆yATEJtTN3T:2014/10/21 18:51:12

泣いた(T_T)

俺はこの人のように使命も功績も無い人生だった。

2:面白い名無し:2014/10/21 23:01:52

※1
これからだろ
鞭牛は46歳だったし

3:ボン:2014/10/31 9:39:41

106は良く使うwwwそんな歴史があったとわ(´・ω・`)

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