「我、死す。されど、屈せず。さらば、祖国よ」 イジニエフがソビエト連邦に遺した遺書

カテゴリー: 感動・泣ける話
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27:イジニエフ1/2:2007/10/17(水) 00:50:43.89 ID:fQQZw3fC0

「我、死す。 されど、屈せず。 さらば、祖国よ―」
1941年6月22日、独ソ開戦から1ヶ月にして、ワルシャワとモスクワの中間都市ミンスクは、ヒトラーの電撃作戦に敗れ、陥落。
イジニエフ・アリスコビッチは、この遺書をしたため、戦闘に参加した。
そして、皮肉なことに、遺書をしたためた彼だけが生き残った。

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1945年のドイツ降伏まで、彼は捕虜として過酷な収容所生活を送り、
やっと祖国に帰国した彼を待っていたのは「ソビエトも負けたところがある」ことを認めたくなかったスターリンによる、
「イジニエフは対ドイツ協力者、裏切り者である」としてシベリア送りにする陰謀だった。

やがて、時は流れ、スターリンは失脚。
後に立ったフルチショフによるスターリン批判により、「ナチス・ドイツに対して勇敢に戦った者達」として、
ミンスクとブレスト要塞が「英雄都市」として、祭り上げられると同時に
イジニエフは「ソビエト最大の裏切り者」から、一日にして「ソビエト最大の英雄」に成る。

ソビエトという国家は手の平を返したようにイジニエフを賞賛し、数多くの勲章を送る。
だがイジニエフは、英雄に成ったからといって奢るでもなく、
シベリア送りに成っていたからといって、いじけるでもなく、
 「私は単なる共産主義者。単なる労働者に過ぎない」
と、言って、数多くの「英雄」としての名誉職をすべて断り、
一人の労働者として、鉄道整備をしながら人生を過ごした。

そして、晩年を迎えようとする彼の人生に一つの事件が起きる。
チェルノブイリ原子力発電所の事故である。

29:イジニエフ2/2:2007/10/17(水) 00:54:47.10 ID:fQQZw3fC0

「私がいなかったら、誰が列車を動かすんだ?」

彼はただ、それだけを言うと、次々と逃げ出した同僚を尻目に
避難者で満員の列車を一人で動かしつづけた。
汚染地域の上を何往復も…

やがて、すべてが終わった時、イジニエフは血を吐いた。
放射能症である。

医者すらも、「イジニエフを治療すると自分が危ない」として、治療を断わる始末。
チェルノブイリ原子力発電所の事故は、崩壊しつつあったソビエトという国家そのものを象徴していたとも言える。

「一人の労働者」として働き続け、ようやく稼いだイジニエフの持つ「ルーブル」は、
インフレにより一夜にして紙クズと変り、貰った数多くの勲章は、何の価値も無いガラクタなっていた。

そして、イジニエフは死にかけていた。

病床のイジニエフが、同じく死にかけていたソビエトに対して、遺した言葉がある。

 「我、死す。されど、屈せず。 さらば、祖国よ―」

1991年12月21日。イジニエフ、放射能症により死去。
それは奇しくも、彼が別れを告げた祖国・ソビエト連邦が消滅したのと同じ日であった。

みんなの反応

1:面白い名無し:2017/06/04 16:13:53

愛国心っていうのは、その国がどんな状況になろうと逃げ出さず、その国のために尽力さすることなんだね。

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